人生紙芝居
大阪で生まれ育ったおっさんのひとり言
自分史 「大阪ベイエリア」(40) 大正区編 ~懺悔 2~
昭和53年3月、私たち夫婦に待望の娘(長女)が生まれたが、早産のため体重は1,700グラムの未熟児だった。3ヶ月は病院の保育器の世話になるが、長女には退院してからも通院しなければならない症状もあった。何ひとつ愚痴も言わず、連れ合いは毎日病院に出向き娘に母乳を与えていた。退院してからも定期的に通院しなければならない娘のことを思い、その年の7月に病院近くの市営住宅に引っ越した。
長女の症状は軽く定期的な通院もなく成長してくれた。そして2年後の昭和55年9月に二人目の子どもも授かることになった。二女の出産時も長女と同じで、連れ合いが“破水”した夜に私は自宅におらず、隣の奥さんが病院に運んでくれて無事に二女を出産した。私は長女出産時の教訓もわすれ、二女の出産時も遊び呆け毎日帰宅が遅かった。二人の娘の名前も連れ合いに相談せず、自分勝手に長女は私の好きな演歌歌手の名前を、二女の時は眼を閉じ名前辞典(女性)を開き、開いたページに載っている女性の名前を付けた。今になれば二人の娘には悪いことをしたと思っている。
当時の私は仕事も人一倍こなし、会社では自分で言うのもおかしいが人望も厚く職場の若手リーダー的存在だったと思う。一方で労働組合役員の経験をかわれ、組合青年部の役員も頼まれ引き受けることになった。それを契機に組合活動に再び足を踏み入れ、組合活動や地域活動で家庭をかえりみない生活が始まった。私たちが住んでいた住之江区東加賀屋の市営住宅は、平屋の市営住宅を建て替えたものであり、入居者は昔からその土地に住んでいた人たちが多かった。私たちはその住宅の管理人として入居した。連れ合いは二人の娘を抱え内職をしながら、入居者の対応をしてくれた。
私は労働組合の役員に好き好んでなったとは思わないが、私の人生を大きく変えたのは事実である。また、パチンコ通いもパチンコ好きな同僚が会社に多くいたからと思うが、組合活動もパチンコ通いも“環境の変化”だけとはいえない。幼い時の家庭環境を理由にできないが、学問もなく自分の意思が脆弱だったことかもしれないが、連れ合いや娘たちに苦労をかけたのも事実である。
私のパチンコ通いは現在の職業に就いてからである。それまでは賭けごとと言っても競艇を少しかじる程度のものであったが、交替制勤務で時間的に余裕ができ仕事仲間の影響もあった。パチンコで人生を台無しにした人間も多く、私の場合もその仲間に入りかけた一人である。結婚当初は手動式パチンコでチューリップに玉が入れば楽しんでいたが、電動式に変わりデジタルパチンコが登場してからギャンブル性が高くなり次第に深みにはまるようになった。
明けても暮れてもパチンコにうつつを抜かし、開店から閉店まで一日中パチンコ屋に入り浸り、閉店後もパチンコ仲間と飲みに行き、家に帰るのは毎日午前様であった。たまの休日で家に居れば、子ども会や町会の活動に出かけ、帰りはいつも酔っぱらっている。そのほかにも組合や地域活動で飛び跳ねる日も多く、50歳前半まで家族をかえりみない日々を送った。
連れ合いには本当に申し訳ないと反省しているが、時すでにおそしである。何とか離婚されずにすんでいるが、離婚の危機はあったと思う。いや、これからあるかもしれない。子どもからも見放され、二人の娘とも会話の機会を失い、中学校から成人するまで親子の会話もほとんど交わすこともなかった。そんな私に我慢して連れ添ってくれている連れ合いには本当に感謝している。この時代がなければ今の自分はない。いくら懺悔しても許してもらえないと思うが、これからもベイエリアで夫婦仲良く健康で暮らしたいと思う。娘たちも孫たちを連れて遊びに来てくれている。大好きな街「大阪ベイエリア」。
長女の症状は軽く定期的な通院もなく成長してくれた。そして2年後の昭和55年9月に二人目の子どもも授かることになった。二女の出産時も長女と同じで、連れ合いが“破水”した夜に私は自宅におらず、隣の奥さんが病院に運んでくれて無事に二女を出産した。私は長女出産時の教訓もわすれ、二女の出産時も遊び呆け毎日帰宅が遅かった。二人の娘の名前も連れ合いに相談せず、自分勝手に長女は私の好きな演歌歌手の名前を、二女の時は眼を閉じ名前辞典(女性)を開き、開いたページに載っている女性の名前を付けた。今になれば二人の娘には悪いことをしたと思っている。
当時の私は仕事も人一倍こなし、会社では自分で言うのもおかしいが人望も厚く職場の若手リーダー的存在だったと思う。一方で労働組合役員の経験をかわれ、組合青年部の役員も頼まれ引き受けることになった。それを契機に組合活動に再び足を踏み入れ、組合活動や地域活動で家庭をかえりみない生活が始まった。私たちが住んでいた住之江区東加賀屋の市営住宅は、平屋の市営住宅を建て替えたものであり、入居者は昔からその土地に住んでいた人たちが多かった。私たちはその住宅の管理人として入居した。連れ合いは二人の娘を抱え内職をしながら、入居者の対応をしてくれた。
私は労働組合の役員に好き好んでなったとは思わないが、私の人生を大きく変えたのは事実である。また、パチンコ通いもパチンコ好きな同僚が会社に多くいたからと思うが、組合活動もパチンコ通いも“環境の変化”だけとはいえない。幼い時の家庭環境を理由にできないが、学問もなく自分の意思が脆弱だったことかもしれないが、連れ合いや娘たちに苦労をかけたのも事実である。
私のパチンコ通いは現在の職業に就いてからである。それまでは賭けごとと言っても競艇を少しかじる程度のものであったが、交替制勤務で時間的に余裕ができ仕事仲間の影響もあった。パチンコで人生を台無しにした人間も多く、私の場合もその仲間に入りかけた一人である。結婚当初は手動式パチンコでチューリップに玉が入れば楽しんでいたが、電動式に変わりデジタルパチンコが登場してからギャンブル性が高くなり次第に深みにはまるようになった。
明けても暮れてもパチンコにうつつを抜かし、開店から閉店まで一日中パチンコ屋に入り浸り、閉店後もパチンコ仲間と飲みに行き、家に帰るのは毎日午前様であった。たまの休日で家に居れば、子ども会や町会の活動に出かけ、帰りはいつも酔っぱらっている。そのほかにも組合や地域活動で飛び跳ねる日も多く、50歳前半まで家族をかえりみない日々を送った。
連れ合いには本当に申し訳ないと反省しているが、時すでにおそしである。何とか離婚されずにすんでいるが、離婚の危機はあったと思う。いや、これからあるかもしれない。子どもからも見放され、二人の娘とも会話の機会を失い、中学校から成人するまで親子の会話もほとんど交わすこともなかった。そんな私に我慢して連れ添ってくれている連れ合いには本当に感謝している。この時代がなければ今の自分はない。いくら懺悔しても許してもらえないと思うが、これからもベイエリアで夫婦仲良く健康で暮らしたいと思う。娘たちも孫たちを連れて遊びに来てくれている。大好きな街「大阪ベイエリア」。
自分史 「大阪ベイエリア」(39) 大正区編~懺悔 1~
私たち夫婦は昭和52年1月10日、西成区津守2丁目の社宅に引っ越した。自分が住みたいと思った場所でもないが、そんな贅沢を言えば罰があたる。社宅は10件ほどあり、私たちが入居して満室になった。部屋も3室あり、なにより玄関が広く取られ、玄関の「畳の間」を入れれば4室になる。畳の大きさも京間(本間)で同じ四畳半や六畳でも、当時の一般家庭の部屋より広く夫婦二人が暮らすには十分であった。
入居当初は組合の関係で毎晩遅くなり、連れ合いが作ってくれた夕食も食べないことが多かった。彼女は夕食もとらずに私の帰りを待ちくたびれて、コタツでうたた寝している姿を何度も見たことがある。友人を夜遅くに社宅に連れて来て、酒を飲むこともあった。酒を飲むことも「仕事の一つ」と言っては、帰りはいつも遅くなった。大正区の実家を飛び出し、夫婦二人の生活を求めた時の気持ちも“どこ吹く風”であった。彼女を幸福にと思いながらも、何ひとつ彼女のことを考えようとしなかった。
私は彼女と付き合う前からパチンコが趣味だった。当時の勤務が交替制だったので、暇な時間はほとんどパチンコ通いが多かった。組合役員は1年でクビになったが、それ以降もパチンコ通いは続いた。私の安い給与では生活もできず、彼女もパートに出かけ生計を助けてくれた。たまに、彼女から所帯や身内のことを相談されても真剣に聞こうとせず、反対に気に入らないことがあれば彼女にあたり、何日も口をきかないこともあった。
大正区の家を出たからと言っても、親父の世話は付いて回った。月に何度か実家に顔を出し、飢えをしのげる最低限の食材を購入し、金銭も少しであるが渡していた。それでも親父は毎日のように電話をかけてきた。夜中にかかってくることも度々あり、電話機を座布団に包んで音が聞こえないようにしたこともあった。日中の電話は連れ合いが取ることが多く、親父の愚痴を聞くだけでも嫌気がさしたと思う。私はそんな彼女の気持ちを察することもなくパチンコ通いを続けていた。
そんな二人にも子供が授かったが、私の身勝手な行動は一向に変わらなかった。子どもの出産予定日が4月であったが、3月の初めに夜遅く帰宅したら連れ合いは電話機の前でうずくまっていた。“破水”して姉に電話をかけて相談し、少し経ってから私が帰宅したのである。すぐに車で病院に連れて行き、その夜中に無事長女を出産した。しかし、早産の影響で長女は1,700グラムの未熟児だった。今から思えば彼女の体を考え産み月が近くなれば、なぜ早く帰ろうとしなかったのか反省している。
私は何年か前から四国八十八か所の寺を遍路している。「我昔所造諸悪業 皆由無始貪慎癡 従身口意之所生 一切我今昔懺悔」。これは般若心教の開経偈に続く懺悔文である。現代語意訳では「私が過去に行ったあらゆる汚れた行いは、すべて、はじめもわからない深い食欲、怒り、愚かさによります。それは、体の行い、口の行い、心の行いから生起したものです。すべてを、私は、いま仏に照らされて悔い改めます」と訳されている。寺をまわる遍路は、各寺院で必ず般若心教を唱える。
私が偉そうに講釈を述べる資格もないが、四国遍路をしていると過去に自分が家族に対して行ったことを悔い改める機会を持つことができる。歩き遍路なので命があるうちに満願成就できるかわからないが、連れ合いや子どもたちに対し懺悔の気持ちを持ちたい。特に、連れ合いは大病を患い、今も病院通いをしている。病気の回復を願うばかりである。この時代がなければ今の自分はない。社宅の窓から見える“通天閣のネオン”が、何か浪速の温もりを感じさせる。大好きな街「大阪ベイエリア」。
入居当初は組合の関係で毎晩遅くなり、連れ合いが作ってくれた夕食も食べないことが多かった。彼女は夕食もとらずに私の帰りを待ちくたびれて、コタツでうたた寝している姿を何度も見たことがある。友人を夜遅くに社宅に連れて来て、酒を飲むこともあった。酒を飲むことも「仕事の一つ」と言っては、帰りはいつも遅くなった。大正区の実家を飛び出し、夫婦二人の生活を求めた時の気持ちも“どこ吹く風”であった。彼女を幸福にと思いながらも、何ひとつ彼女のことを考えようとしなかった。
私は彼女と付き合う前からパチンコが趣味だった。当時の勤務が交替制だったので、暇な時間はほとんどパチンコ通いが多かった。組合役員は1年でクビになったが、それ以降もパチンコ通いは続いた。私の安い給与では生活もできず、彼女もパートに出かけ生計を助けてくれた。たまに、彼女から所帯や身内のことを相談されても真剣に聞こうとせず、反対に気に入らないことがあれば彼女にあたり、何日も口をきかないこともあった。
大正区の家を出たからと言っても、親父の世話は付いて回った。月に何度か実家に顔を出し、飢えをしのげる最低限の食材を購入し、金銭も少しであるが渡していた。それでも親父は毎日のように電話をかけてきた。夜中にかかってくることも度々あり、電話機を座布団に包んで音が聞こえないようにしたこともあった。日中の電話は連れ合いが取ることが多く、親父の愚痴を聞くだけでも嫌気がさしたと思う。私はそんな彼女の気持ちを察することもなくパチンコ通いを続けていた。
そんな二人にも子供が授かったが、私の身勝手な行動は一向に変わらなかった。子どもの出産予定日が4月であったが、3月の初めに夜遅く帰宅したら連れ合いは電話機の前でうずくまっていた。“破水”して姉に電話をかけて相談し、少し経ってから私が帰宅したのである。すぐに車で病院に連れて行き、その夜中に無事長女を出産した。しかし、早産の影響で長女は1,700グラムの未熟児だった。今から思えば彼女の体を考え産み月が近くなれば、なぜ早く帰ろうとしなかったのか反省している。
私は何年か前から四国八十八か所の寺を遍路している。「我昔所造諸悪業 皆由無始貪慎癡 従身口意之所生 一切我今昔懺悔」。これは般若心教の開経偈に続く懺悔文である。現代語意訳では「私が過去に行ったあらゆる汚れた行いは、すべて、はじめもわからない深い食欲、怒り、愚かさによります。それは、体の行い、口の行い、心の行いから生起したものです。すべてを、私は、いま仏に照らされて悔い改めます」と訳されている。寺をまわる遍路は、各寺院で必ず般若心教を唱える。
私が偉そうに講釈を述べる資格もないが、四国遍路をしていると過去に自分が家族に対して行ったことを悔い改める機会を持つことができる。歩き遍路なので命があるうちに満願成就できるかわからないが、連れ合いや子どもたちに対し懺悔の気持ちを持ちたい。特に、連れ合いは大病を患い、今も病院通いをしている。病気の回復を願うばかりである。この時代がなければ今の自分はない。社宅の窓から見える“通天閣のネオン”が、何か浪速の温もりを感じさせる。大好きな街「大阪ベイエリア」。
定年退職の前日
あと数時間で定年退職の辞令をうける。39年1カ月、無事に勤めることができた。そんなに長く勤める予定ではなかったが、何かしら39年をむかえた。「良かったの?」と問い直せば「結果オーライ」と思う。
長いようで短いとよく言うが、私には長かった感がする。もっと充実した人生が送れたかもしれないが、それは、あくまで結果論かもしれない。今の仕事を辞めていたらいったいどんなことになっていたのか。
今があればこそ妻や子どもや孫がいてくれる。結果オーライではなく、今があるから家族がいる。やはり、家族がいればこそ39年も勤められたと思うべきである。
自分史「大阪ベイエリア」で自分の人生を執筆しているが、自分一人では決して生きていけないことはわかっている。自分を産んだ親もいれば育てた親も親戚もいる。一人でここまで生きれるわけがない。人の助けが必ず必要であると人生を痛感する。これからも人を信じて生きていきたい。
長いようで短いとよく言うが、私には長かった感がする。もっと充実した人生が送れたかもしれないが、それは、あくまで結果論かもしれない。今の仕事を辞めていたらいったいどんなことになっていたのか。
今があればこそ妻や子どもや孫がいてくれる。結果オーライではなく、今があるから家族がいる。やはり、家族がいればこそ39年も勤められたと思うべきである。
自分史「大阪ベイエリア」で自分の人生を執筆しているが、自分一人では決して生きていけないことはわかっている。自分を産んだ親もいれば育てた親も親戚もいる。一人でここまで生きれるわけがない。人の助けが必ず必要であると人生を痛感する。これからも人を信じて生きていきたい。
自分史「大阪ベイエリア」(39)大正区編~懺悔 Ⅰ~
私たち夫婦は昭和52年1月10日、西成区津守2丁目の社宅に引っ越した。自分が住みたいと思った場所でもないが、そんな贅沢を言えば罰があたる。社宅は10件ほどあり、私たちが入居して満室になった。部屋も3室あり、なにより玄関が広く取られ、玄関の「畳の間」を入れれば4室になる。畳の大きさも京間(本間)で同じ四畳半や六畳でも、当時の一般家庭の部屋より広く夫婦二人が暮らすには十分であった。
入居当初は組合の関係で毎晩遅くなり、連れ合いが作ってくれた夕食も食べないことが多かった。彼女は夕食もとらずに私の帰りを待つあまり、コタツでうたた寝している姿を何度も見たことがある。友人を夜遅くに社宅に連れて来て、酒を飲むこともあった。酒を飲むことも「仕事の一つ」と言っては、帰りはいつも遅くなった。大正区の実家を飛び出し、夫婦二人の生活を求めた時の気持ちも“どこ吹く風”であった。彼女を幸福にと思いながらも、何ひとつ彼女のことを考えようとしなかった。
私は彼女と付き合う前からパチンコが趣味だった。当時の勤務が交替制だったので、暇な時間はほとんどパチンコ通いが多かった。組合役員は1年でクビになったが、それ以降もパチンコ通いは続いた。私の安い給与では生活もできず、彼女もパートに出かけ生計を助けてくれた。たまに、彼女から世帯や身内のことを相談されても真剣に聞こうとせず、反対に気に入らないことがあれば彼女にあたり、何日も口を聞かないこともあった。
大正区の家を出たからと言っても、親父の世話は付いて回った。月に何度か実家に顔を出し、飢えをしのげる最低限の食材を購入し、金銭も少しであるが渡していた。それでも親父は毎日のように電話をかけてきた。夜中にかかってくることも度々あり、電話機を座布団に包んで音が聞こえないようにしたこともあった。日中の電話は連れ合いが取ることが多く、親父の愚痴を聞くだけでも嫌気がさしたと思う。私はそんな彼女の気持ちを察することもなくパチンコ通いを続けるダメな男だった。
そんな二人にも子供が授かったが、私の身勝手な行動は一向に変わらなかった。子どもの出産予定日が4月であったが、3月の初めに夜遅く帰宅したら連れ合いは電話機の前でうずくまっていた。“破水”して姉に電話をかけて相談し、少し経ってから私が帰宅したのである。すぐに車で病院に連れて行き、その夜中に無事長女を出産した。しかし、早産の影響で長女は1,700グラムの未熟児だった。今から思えば彼女の体を考え産み月が近くなれば、なぜ早く帰ろうとしなかったのか反省している。
私は何年か前から四国八十八か所の寺を遍路している。「我昔所造諸悪業 皆由無始貪慎癡 従身口意之所生 一切我今昔懺悔」。これは般若心教の開経偈に続く懺悔文である。現代語意訳では「私が過去に行ったあらゆる汚れた行いは、すべて、はじめもわからない深い食欲、怒り、愚かさによります。それは、体の行い、口の行い、心の行いから生起したものです。すべてを、私は、いま仏に照らされて悔い改めます」と訳されている。寺をまわる遍路は、各寺院で必ず般若心教を唱える。
私が偉そうに講釈を述べる資格もないが、四国遍路をしていると過去に自分が家族に対して行ったことを悔い改める機会を持つことができる。歩き遍路なので命があるうちに満願成就できるかわからないが、連れ合いや子どもたちに対し懺悔の気持ちを持ちたい。特に、連れ合いは大病を患い、今も病院通いをしている。病気の回復を願うばかりである。この時代がなければ今の自分はない。社宅の窓から見える“通天閣のネオン”が、何か浪速の温もりを感じさせる。大好きな街「大阪ベイエリア」。
入居当初は組合の関係で毎晩遅くなり、連れ合いが作ってくれた夕食も食べないことが多かった。彼女は夕食もとらずに私の帰りを待つあまり、コタツでうたた寝している姿を何度も見たことがある。友人を夜遅くに社宅に連れて来て、酒を飲むこともあった。酒を飲むことも「仕事の一つ」と言っては、帰りはいつも遅くなった。大正区の実家を飛び出し、夫婦二人の生活を求めた時の気持ちも“どこ吹く風”であった。彼女を幸福にと思いながらも、何ひとつ彼女のことを考えようとしなかった。
私は彼女と付き合う前からパチンコが趣味だった。当時の勤務が交替制だったので、暇な時間はほとんどパチンコ通いが多かった。組合役員は1年でクビになったが、それ以降もパチンコ通いは続いた。私の安い給与では生活もできず、彼女もパートに出かけ生計を助けてくれた。たまに、彼女から世帯や身内のことを相談されても真剣に聞こうとせず、反対に気に入らないことがあれば彼女にあたり、何日も口を聞かないこともあった。
大正区の家を出たからと言っても、親父の世話は付いて回った。月に何度か実家に顔を出し、飢えをしのげる最低限の食材を購入し、金銭も少しであるが渡していた。それでも親父は毎日のように電話をかけてきた。夜中にかかってくることも度々あり、電話機を座布団に包んで音が聞こえないようにしたこともあった。日中の電話は連れ合いが取ることが多く、親父の愚痴を聞くだけでも嫌気がさしたと思う。私はそんな彼女の気持ちを察することもなくパチンコ通いを続けるダメな男だった。
そんな二人にも子供が授かったが、私の身勝手な行動は一向に変わらなかった。子どもの出産予定日が4月であったが、3月の初めに夜遅く帰宅したら連れ合いは電話機の前でうずくまっていた。“破水”して姉に電話をかけて相談し、少し経ってから私が帰宅したのである。すぐに車で病院に連れて行き、その夜中に無事長女を出産した。しかし、早産の影響で長女は1,700グラムの未熟児だった。今から思えば彼女の体を考え産み月が近くなれば、なぜ早く帰ろうとしなかったのか反省している。
私は何年か前から四国八十八か所の寺を遍路している。「我昔所造諸悪業 皆由無始貪慎癡 従身口意之所生 一切我今昔懺悔」。これは般若心教の開経偈に続く懺悔文である。現代語意訳では「私が過去に行ったあらゆる汚れた行いは、すべて、はじめもわからない深い食欲、怒り、愚かさによります。それは、体の行い、口の行い、心の行いから生起したものです。すべてを、私は、いま仏に照らされて悔い改めます」と訳されている。寺をまわる遍路は、各寺院で必ず般若心教を唱える。
私が偉そうに講釈を述べる資格もないが、四国遍路をしていると過去に自分が家族に対して行ったことを悔い改める機会を持つことができる。歩き遍路なので命があるうちに満願成就できるかわからないが、連れ合いや子どもたちに対し懺悔の気持ちを持ちたい。特に、連れ合いは大病を患い、今も病院通いをしている。病気の回復を願うばかりである。この時代がなければ今の自分はない。社宅の窓から見える“通天閣のネオン”が、何か浪速の温もりを感じさせる。大好きな街「大阪ベイエリア」。




